私のレストラン

祖母のトランクに登場した伯母は、その後各地のレストランやカフェで働いて一家を養いながら、
ついに1970年頃、横浜郊外の戸塚というところに自分の店を構えました。

共同経営の叔父は、15の時から調理一筋、本牧の米軍基地で洋食を叩き込まれた人でした。
伯母夫婦には子供がなかったので、店には、当時預けられていた私の名がつけられました。

駅から遠い公団住宅の入口という地の利の悪さでしたが、開店から数年は毎日行列ができる繁盛ぶり。
特に叔父のビーフシチューは評判で、東京などの遠方からわざわざ食べにくるお客さんもいたのです。

朝は6時前に家を出て仕込み、9時開店から夜中近くまで働き、帰宅は1時過ぎという毎日でした。
休みは週1日ですから、毎日4時間睡眠です。

私も跡取り娘として店の仕事をあれこれ仕込まれましたが、料理や経営には才能がなかったようで、
「研究」と称して食べ歩く技(?)以外はあまり大したことは身に付かなかったようです(苦笑)。

そのうち、従業員に暖簾分けをして横浜・川崎エリアを中心に支店も増え、
近くの日産自動車の工場の独身寮にも「喫茶室」(実は居酒屋のような・・・)を出店しました。

私は小学校2年のときに実親に引き取られた後も、高校2年で店が無くなるまでずっと、
毎週、土曜日の夜と日曜日は終日、伯父伯母の店を手伝いに泊まりがけで横浜まで通っていました。

大人のバイトも何人かいましたが、「自分の店」だと思っている私は先頭に立って休まず働きました。
お客さんがいない時には店中をピカピカに掃除し、お客さんが来ればこれ以上はないという笑顔。

喫茶室では「もう一本いかがですか~?」とビールやお酒を勧めてまわる恐ろしい看板娘でした。
(←イタイケなローティーンに勧められたら誰も断れません!)

その頃の自動車会社の工場のラインで働いてる人達ってほとんど中卒の集団就職だったから、
よく考えたら17~18歳の未成年だったのですね~! 

オッチャンだと思ってましたが・・・(←言い訳)

暴○族やってる人も多くて、「今度一緒に集会行こうよ♪」なんてよく誘われました。
(おいおい、私、小学生だよ・・・)

でも故郷に仕送りをしているような真面目な人がほとんどで、本当に車が好きなのでした。
貯金が1000万円できるまでここで頑張って、いずれは帰って田畑を継ぐのだという人もいました。

伯母は媚びないタイプで、客商売にしては随分と不愛想、というかぶっきらぼうな感じでしたが、
実は常連さん達のことも従業員達のことも心から思いやっている優しい人でした。

だからいつも「ママ、ママ」と慕われ、店も家も訪れる人が絶えませんでした。

伯父は職人肌で商売っけがなかったので、店の経営は伯母がとりしきっていました。
伯母も料理上手で調理師免許も持っていましたが、伯父の腕には遠く及ばないと遠慮していました。

伯父と伯母の世話になっていた数年間、私は大事にされ、そして贅沢に暮らさせてもらいました。
どこへ行くにもハイヤーを呼び、食事は外食、洗濯物は全部クリーニング・・・

ズボラな癖だけが残ってしまいました。

☆☆☆☆☆


「飛ぶ鳥を落とす」勢いだった店の経営に蔭が差し始めたのは、バス路線が変わってからでした。

私のレストランは、住宅団地からバス通りへ出る道の途中にあったのですが、
団地中央まで直通で行くバスが新規開通し、人通りがほとんど無くなってしまったのです。

売り上げは半減しました。

それから、従業員に任せておいた支店のひとつがおかしな赤字を出すようになりました。
そこのマスターが優しすぎる人で、バイトの子達の扱いを間違えたのが原因でした。

暖簾分けして作った川崎店は、その元従業員の方が結婚して田舎に帰ることになり、閉店しました。
近くにあった東芝川崎工場の規模縮小で経営が思わしくなかったのも遠因のようでした。

(その工場跡地は近年大規模なコミュニティ施設として再開発されたので、今まで持ちこたえておけばまた賑わったのでしょうが、小さな飲食店が20年も赤字のまま我慢できません)。

連結の赤字が続き、仕入れを楽にするためメニューも減らし、店は精彩を欠いていきました。
まず伯母の生命保険を解約して仕入れや家賃の支払いに充て、やがて伯父の生命保険も解約しました。

日産寮の支店だけは変わらず賑わっていましたが、工場の海外移転が続く80年代前半のこと、
工場用の寮自体が閉鎖されることになり、私の喫茶室(居酒屋)も閉店を余儀なくされました。

こうして命運尽き、最後まで抵抗していた伯父もついに自分の城を閉めることに同意し、
私の名前を冠したレストランは無くなってしまいました。

あれだけタフだった伯母も、それ以来元気を無くし、身体を壊して数年後に亡くなりました。

伯父はずっとよその飲食店に働きに出ていましたが、昨年心臓にペースメーカーを入れたため
「電子レンジのある場所で働いてはならない」というドクターストップがかかってしまいました。

自分が修業を始めたときには存在すらしていなかった、電子レンジという新顔に職を追われたわけです。

私もその後、マクドナルド、学食、カレー屋、銀座のバー・・・とバイトを点々としましたが、
京都・祇園のバーのカウンターに立ったのを最後に、もう20年も飲食業には全く関わっていません。

今でも、立地の良い店、満席のレストラン等を見ると「いいな~」と思うし、
大きな駐車場を見ると「家賃支出も大変だろうな~」と大きなお世話で心配してしまいます。

今でも飲食店に興味はありますが、ふと気づけば、もうヘルプで店に出られる歳ではありません。
ファミレスなら求人がありますが、老体に時給850円であの仕事は・・思い出しただけでもパスです。

何にせよ、今は大手資本でないとやっていけないな~と思います。

「カフェ開業の夢」を語る主婦も多いと聞きますが、
「飲食店は大変よ」という伯母の言葉が耳を離れない私は、とてもそんな気持ちにはなれないのです。