私のレストラン
朝は6時前に家を出て仕込み、9時開店から夜中近くまで働き、帰宅は1時過ぎという毎日でした。
休みは週1日ですから、毎日4時間睡眠です。
休みは週1日ですから、毎日4時間睡眠です。
私も跡取り娘として店の仕事をあれこれ仕込まれましたが、料理や経営には才能がなかったようで、
「研究」と称して食べ歩く技(?)以外はあまり大したことは身に付かなかったようです(苦笑)。
「研究」と称して食べ歩く技(?)以外はあまり大したことは身に付かなかったようです(苦笑)。
私は小学校2年のときに実親に引き取られた後も、高校2年で店が無くなるまでずっと、
毎週、土曜日の夜と日曜日は終日、伯父伯母の店を手伝いに泊まりがけで横浜まで通っていました。
毎週、土曜日の夜と日曜日は終日、伯父伯母の店を手伝いに泊まりがけで横浜まで通っていました。
大人のバイトも何人かいましたが、「自分の店」だと思っている私は先頭に立って休まず働きました。
お客さんがいない時には店中をピカピカに掃除し、お客さんが来ればこれ以上はないという笑顔。
お客さんがいない時には店中をピカピカに掃除し、お客さんが来ればこれ以上はないという笑顔。
オッチャンだと思ってましたが・・・(←言い訳)
暴○族やってる人も多くて、「今度一緒に集会行こうよ♪」なんてよく誘われました。
(おいおい、私、小学生だよ・・・)
(おいおい、私、小学生だよ・・・)
でも故郷に仕送りをしているような真面目な人がほとんどで、本当に車が好きなのでした。
貯金が1000万円できるまでここで頑張って、いずれは帰って田畑を継ぐのだという人もいました。
貯金が1000万円できるまでここで頑張って、いずれは帰って田畑を継ぐのだという人もいました。
だからいつも「ママ、ママ」と慕われ、店も家も訪れる人が絶えませんでした。
伯父は職人肌で商売っけがなかったので、店の経営は伯母がとりしきっていました。
伯母も料理上手で調理師免許も持っていましたが、伯父の腕には遠く及ばないと遠慮していました。
伯母も料理上手で調理師免許も持っていましたが、伯父の腕には遠く及ばないと遠慮していました。
ズボラな癖だけが残ってしまいました。
☆☆☆☆☆
「飛ぶ鳥を落とす」勢いだった店の経営に蔭が差し始めたのは、バス路線が変わってからでした。
私のレストランは、住宅団地からバス通りへ出る道の途中にあったのですが、
団地中央まで直通で行くバスが新規開通し、人通りがほとんど無くなってしまったのです。
団地中央まで直通で行くバスが新規開通し、人通りがほとんど無くなってしまったのです。
売り上げは半減しました。
それから、従業員に任せておいた支店のひとつがおかしな赤字を出すようになりました。
そこのマスターが優しすぎる人で、バイトの子達の扱いを間違えたのが原因でした。
そこのマスターが優しすぎる人で、バイトの子達の扱いを間違えたのが原因でした。
(その工場跡地は近年大規模なコミュニティ施設として再開発されたので、今まで持ちこたえておけばまた賑わったのでしょうが、小さな飲食店が20年も赤字のまま我慢できません)。
こうして命運尽き、最後まで抵抗していた伯父もついに自分の城を閉めることに同意し、
私の名前を冠したレストランは無くなってしまいました。
私の名前を冠したレストランは無くなってしまいました。
あれだけタフだった伯母も、それ以来元気を無くし、身体を壊して数年後に亡くなりました。
伯父はずっとよその飲食店に働きに出ていましたが、昨年心臓にペースメーカーを入れたため
「電子レンジのある場所で働いてはならない」というドクターストップがかかってしまいました。
「電子レンジのある場所で働いてはならない」というドクターストップがかかってしまいました。
自分が修業を始めたときには存在すらしていなかった、電子レンジという新顔に職を追われたわけです。
今でも、立地の良い店、満席のレストラン等を見ると「いいな~」と思うし、
大きな駐車場を見ると「家賃支出も大変だろうな~」と大きなお世話で心配してしまいます。
大きな駐車場を見ると「家賃支出も大変だろうな~」と大きなお世話で心配してしまいます。
今でも飲食店に興味はありますが、ふと気づけば、もうヘルプで店に出られる歳ではありません。
ファミレスなら求人がありますが、老体に時給850円であの仕事は・・思い出しただけでもパスです。
ファミレスなら求人がありますが、老体に時給850円であの仕事は・・思い出しただけでもパスです。
何にせよ、今は大手資本でないとやっていけないな~と思います。
「カフェ開業の夢」を語る主婦も多いと聞きますが、
「飲食店は大変よ」という伯母の言葉が耳を離れない私は、とてもそんな気持ちにはなれないのです。
「飲食店は大変よ」という伯母の言葉が耳を離れない私は、とてもそんな気持ちにはなれないのです。