脚の無いダンサー

身体が健常でない人のことを、アメリカではなるべくDisabled(障害者)とは言わないようにしています。Physically Challenged(身体的に挑戦している?)という言い方をすることが多いです。

「人それぞれに、自分にできる範囲のことをやればいいじゃないか」とずっと思っていた私です。たとえば、私が身体的理由でファッションモデルや野球選手になれないとしても、それは差別ではありません。

中学のとき、事故で片腕を失くした後輩が、それでも無理にバスケットや水泳をする姿を見て、「見てるほうが痛々しくて辛いからやめて!」と切実に思っていました。その思い出があるので、パラリンピックや義足で走る陸上選手を見るのはちょっと苦手でした。仏教的には「同苦」というそうですが、他人の怪我を見ると、自分の身体の同じ部分が本当に痛むのです。

(↑絶対に医師や看護師にはなれない人材)

しかし今日、そんなトラウマを根本的に覆すような映像を、コンテンポラリーダンス評論家の乗越たかおさんの講演会で見せられました。イギリスの、Can Do Co.という、身体障害者を中心としたダンス・カンパニーです。

その映像では、お腹から下が全く無いダンサーが踊っていたのですが、それはもう驚くべき動きでした。それは車椅子の上で腕だけを動かすというようなものではなく、身体全体で所狭しと飛び回っているのです。何が驚いたって、その動きがあまりに美しいために、痛々しさや同情を感じる暇は全くなく、「お腹から下なんか無いほうがいい!あったら邪魔!」と心から思わされてしまったことです。Challenge(挑戦)されて、見事に勝ってしまった一例だと思いました。そこには「不幸な状況を何とか乗り越えている」というような妥協は一切ありませんでした。

こういうのを本当の「昇華」というのでしょうね。

「病気と闘っている」「ワケあり人生」みたいなことをウリにしているタレント・芸術家の皆さんは、少し恥を知り、このダンサーの爪の垢を少しわけてもらってはいかがでしょうか?私自身も、「もし目が見えなくなったら、手が動かなくなったら、音楽に専念しよう」とか「耳が聴こえなくなったら、声が出なくなったら、設計の仕事に戻ろう」などと考えていました。しかし今日、自分はなんと姑息な小さな人間であったかと、深く反省させられました。

また私は、ダンサーというものは、ビシッと鍛えぬいた完璧な身体でないといけないように思っていましたが、ダンス評論家(?)の乗越さんの考えでは、どんな人でも、自分の持っている身体なりに踊れるということのようです。乗越さんご自身、ちょっと太めなプヨプヨ系の体系でしたが、元ダンサーとのことでした。「なぜパパイヤ鈴木がダンサーなのか?」という長年の疑問も、少し解けたような気がしました。

あ、でもご心配なく。今からダンサーになろうとか、ファッションモデルになろうとか、野球選手になろうとか、全然考えてませんから!