斜陽なる一族

偶然にも私の先祖は、母方も父方も酒屋だったのですが、父方の祖母が営んでいた酒屋は、第二次世界大戦の大空襲で蔵もろとも跡形もなく消え去りました。私の父はまだ子供でしたが、兄にあたる伯父達は、焼け跡で米軍相手のヤミ商売を始めました。お縄になることもたびたびで、祖母は留置場に差し入れに通ったそうです。

しかし米兵相手のカメラの売れ行きは好調だったようで、その後3人の伯父達は駅前に写真機店を開業。事業は順調に発展し、京浜地区を中心に支店をいくつも構えるチェーン店となりました。昭和40年代には、黒ベンツを連ねて軽井沢の別荘へ行く成金一族に・・・(ガラ悪いな~)

私の父だけは道楽者で家業を手伝わず海外へ逃亡してしまい、すぐ下の叔父が現像所を任されました。子供の頃、従兄弟達と一緒に真っ暗な現像所に忍び込んで遊び、よく怒られたものです。お抱えのカメラマンや技術者が何人もいたので、私の幼少期の写真は妙にプロ仕様。とはいえ、一族の厄介者のDoodlin'母子は、敷地内の従業員寮(4畳半)に居候させられていました。その寮の北端の部屋に70歳過ぎの独居おばあちゃんがいて、何者だったのかいまだに謎ですが、懐の深い経営者もいた時代だったのかもしれません。

しかしやがてカラー写真が登場し、白黒しか扱っていなかった叔父の現像所は廃業に・・・。

叔父は、廃業した現像所を全てDIYで住居に増改築したほどの、とてつもなく器用な人だったのですが、なぜか事業運だけは悪く、職を転々とした後、最後にはホテルの警備員をしていました。この叔父が実は若い頃は演劇を志していたらしいということを最近知り、自分の人生を狂わせた兄(私の父)を恨んでも無理ないことだなぁ、と申し訳ない気持ちで一杯です。「演劇は喰えないからねえ」などと言う父に「アナタは何ですか?」と心の中でそっとつぶやいた私です。でも、仕事で石鹸を山ほど使う父のためにホテルのアメニティの使い残し石鹸を届けてくれたりする、
実に人の良い叔父さんなんです。

話を本家に戻しましょう。

ビルを建て、派手に暮らしていた伯父達のカメラ店も、やがて雲行きが怪しくなってきました。ヨド○シカメラ、ビッ○カメラ等の大型店の進出です。その頃には、私の従兄や従姉の婿達が跡を継いで経営にあたっていましたが、大学病院のレントゲン写真の現像を受注したり、学校写真を受注したりして、なんとか持ちこたえ。ところが次はデジタルの波です。デジカメの販売では家電量販店にかなわないし、病院のX線もデジタル、DPE需要も極端に減りました。かつての「駅前店」は携帯ショップに、「本店」の半分はクリーニングの取次ぎに貸しているようです。

でもこの厳しい時代にあってちゃんと店に経営を成り立たせている従兄の手腕には頭が下がります。