ディープな京都(2)一条山問題
1981年、開発業者が京都市から宅地造成の許可を得た。
1982年、「山の稜線を残す」という許可条件に反して山がどんどん削られ始めたのを見つけた住民が
「おかしぃんちゃうか?」と市に通報。
1983年、工事停止命令は出たものの、山はそのまま放置。
1989年、京都市「もう今さらしょうがないのでやっちゃえ」と後付け許可。
1992年、市は住民の主張を認めたものの、業者は今度は建設大臣に再審査請求。
1994年、なぜか建設大臣は業者に全面開発の許可を与えた。(←密室審議で経緯は不明)
1995年、市民466人と弁護士33人が原告団を結成、環境保全の裁判を起こしてから17年・・・
31回の裁判と1回の現場検証を経て、
2001年、原告が提訴を取り下げる、という形で裁判は終わった。
1982年、「山の稜線を残す」という許可条件に反して山がどんどん削られ始めたのを見つけた住民が
「おかしぃんちゃうか?」と市に通報。
1983年、工事停止命令は出たものの、山はそのまま放置。
1989年、京都市「もう今さらしょうがないのでやっちゃえ」と後付け許可。
1992年、市は住民の主張を認めたものの、業者は今度は建設大臣に再審査請求。
1994年、なぜか建設大臣は業者に全面開発の許可を与えた。(←密室審議で経緯は不明)
1995年、市民466人と弁護士33人が原告団を結成、環境保全の裁判を起こしてから17年・・・
31回の裁判と1回の現場検証を経て、
2001年、原告が提訴を取り下げる、という形で裁判は終わった。
山らしい形に作り直して植樹すること、開発する宅地数を減らすこと、という条件で決着したのです。
こちらの写真は2005年の夏に撮ったもの。
すでに復旧工事が再開され、あのおかしなモヒカン頭はもう無くなっていました。
しかし地元は決して「全面解決、バンザイ!」という様子ではなかったです。
しかし地元は決して「全面解決、バンザイ!」という様子ではなかったです。
でもそれは、住民の記憶に残っている「丸いお椀を伏せたような山」とは似ても似つかない、
小さな角ばった丘です。
小さな角ばった丘です。
ここで皆さんは「なぜ市が違法開発に追従許可を出したのか?」という疑問をお持ちになるでしょう。
それはズバリ、開発業者が「エセ同和」だったからです。
それはズバリ、開発業者が「エセ同和」だったからです。
美しい燻し銀の「甍(いらか)の波」はもうほとんど残っていません。
細い路地は車で溢れ、街には勝手気ままなビルと「歯抜け」のパーキングが立ち並んでいます。
細い路地は車で溢れ、街には勝手気ままなビルと「歯抜け」のパーキングが立ち並んでいます。
かつては「五山の送り火」(通称大文字焼き)の全てが市内のどこからでも見えるべきものでしたが、
今ではひとつでも見えるスポットを探すのが大変、8月16日の夜は大混雑になります。
(そこで送り火を見せるための高層ホテルが建ち、地上からはますます見えなくなる、という悪循環)。
今ではひとつでも見えるスポットを探すのが大変、8月16日の夜は大混雑になります。
(そこで送り火を見せるための高層ホテルが建ち、地上からはますます見えなくなる、という悪循環)。
市内のいたるところにあった借景の庭も、今では郊外の二つの寺にかろうじて残っているだけです。
京都の町は、「もう今さら何を止めても手遅れ」というところまで来ています。
それによると、規制がかかる地域に今すでに建っている高層マンション等は、
立替時には、セットバックならぬ「階数減らし」をせざる得ないことになるらしいです。
立替時には、セットバックならぬ「階数減らし」をせざる得ないことになるらしいです。
桝本市長は「京都ブランドを守るためには多少の痛みもいたしかたない、頑張ります!」
というような姿勢らしいですが、そんなに簡単に行くものなら、どうしてここまで来たのでしょう?
というような姿勢らしいですが、そんなに簡単に行くものなら、どうしてここまで来たのでしょう?
京都好きな全国の皆さん、どうか一緒に考えてくださ~い。