映画づくりの思い出

映画甲子園」という高校生向けの映画製作コンクールがあるらしいです。
http://www.eigakoushien.jp/

いつの時代も変わらんな~と思いかけましたが、ハタと気づいたのです、全然違う状況に。

今はデジタルビデオカメラがあるから、誰でも気軽に安上がりに映画作れるじゃないですか!
(赤ちゃんを持ったことのある人なら、映像編集の一度や二度は経験があるはず・・・)

20数年前には、映画を撮るなんてのは一部のオタク達の仕事でした。

それでも、雑誌「ぴあ」が主催するアマチュア映画コンテストに入賞した友達もいて、
それがきっかけでスカウトされて俳優になった子もいました。最近見かけないけど・・・

彼らは、他のすべてをすてて映画に打ち込んでいました。
以前にお話した、「一緒に起業した僧侶と神官」のいた男子校での話。

私達の高校(共学)でも、クラス全員で文化祭向けにお遊びで一本撮ったことがあります。
ローカルなギャグを随所に散りばめた学園コメディでした。

なぜ高校の文化祭ごときにそんな凝った出し物ができたのかというと、
クラスの中に、映写機一式完備している映画製作オタク少年がいたからです。

彼は照明の使い方から編集のしかたまで熟知しており、もちろん監督に。
柔道部の主将で硬派一筋と思っていたので、そんな裏の顔を知ったときは驚いてひっくり返りました。

「勉強が忙しいからイヤだ」という進学組も、力ずくで出演させました。
ブラジル帰国子女の男の子には「本場仕込のサッカー部」の演技指導をしてもらいました。

また、この学校には存在していなかった「ツッパリ」風の若者が必要な場面では、
私の地元から「本物」の人達を連れてきて友情出演していただきました。

私は原作を書き、細々とした裏方の取りまとめをしていました(格好良く言えば、プロデューサー)。

この映画は予想外に当たり、2日間で1200名を超える観客動員となりました。
普通教室だったので立ち見の客が溢れ、予定時間を変更して何度も何度も繰り返して上映しました。

主題歌を演奏していた私達のバンドのコンサートも、便乗人気で大いに盛り上がりました。

「このまま『ぴあ』に出せるかも・・・」とみんなが思い始めた3日めの朝、フィルムからボッと火が・・・。

当時の8ミリテープ(Hi-8とかではなくて、大きなリールテープを自分で切り貼りするやつ)は
自然発火しやすい材質だったらしく、予想外の人気に調子づいて回しすぎたのが裏目に出たのです。

こうして、3ヶ月間のクラス全員の努力は燃えてなくなってしまいました。

学園祭が終わるとまもなく3年生、映画を作った仲間達も、それぞれに受験勉強に没頭し始めました。
またその後、この経験を活かして映画界等に進出した人は一人もいませんでした。

監督(映画オタク)は東大に進学してそのまま生物学系の研究者になりました。

脚本の半分を書いた男子(直木賞作家の甥っ子)はいつも気のきいたことを言ったり書いたりするので、
「彼はきっとコピーライターになる!」と周囲から言われていましたが、なぜか一橋の法学部に進学。

それでもまだ「田中康夫(←当時はまだ人気作家)の後輩だね!」と期待されてましたが、
結局は大手メーカーに就職し、営業マンになってしまいました。そりゃ確かに口は上手かったけど・・・

そのままのキャラで出演してもらった「哲学オタク」(何かにつけてニーチェを引用する人)も、
なぜか大学は経済学部に進学し、銀行に就職したと聞きました。

みんなそれぞれに言い訳をしながら、素直じゃない進路選択をしていた時代でした。

私が地元から連れてきた「ツッパリ」君は、入退院(病気じゃないほう)を繰り返した後、
車関係の仕事を経て、今は小さな会社の専務に納まっているようです(あいかわらずヤンチャですが)。

みんな偉くなっちゃって、高校時代の友人で今でも連絡を取り合っている人は2人しかいません。
燃えて無くなってしまったリールと一緒に、夢も友達も消えてしまったようでした。