祖母のトランク(敗戦の日)
私がまだ幼い頃、押入れで遊んでいたとき、天袋にボロボロのトランクを見つけました。
それはごくごく薄い革でできており、とても軽くて驚いたことを覚えています。
祖母が敗戦で日本に渡るとき、飛行機に乗るために特別に作らせたものだそうです。
祖母が敗戦で日本に渡るとき、飛行機に乗るために特別に作らせたものだそうです。
祖母は中国の蕪湖で生まれ育ち、上海と南京で大きな商売を営んでいました。
商売敵だった児○機関は上手く財産を持ち帰ったとの噂、その後のご活躍(?)もよく知られる所ですが、
バカ正直な私の祖母は、言われるままに家も土地も金銀財宝もすべて外地に置いてきたそうです。
バカ正直な私の祖母は、言われるままに家も土地も金銀財宝もすべて外地に置いてきたそうです。
それでも幸運だったのは、民間人にも関らず、軍用機で帰国させていただけたことです。
他の入植者達がバタバタと帰国船に乗り込む傍らで、私達の一族は特別扱いで空の旅だったようです。
他の入植者達がバタバタと帰国船に乗り込む傍らで、私達の一族は特別扱いで空の旅だったようです。
もちろん、旅客機など無い時代に、です。
「もし船に乗っていたら、私達もどうなっていたかわからないのよ」と、
中国残留孤児のニュースが流れるたび、伯母は気の毒がって涙を流していました。
中国残留孤児のニュースが流れるたび、伯母は気の毒がって涙を流していました。
タバコに巻いて隠し持ってきた僅かな現金(十万ドル、現在の約1200万円)も、日本に着いたとたん、
「両替してきてあげる」と言う京都の親戚に持っていかれてしまいました。
「両替してきてあげる」と言う京都の親戚に持っていかれてしまいました。
蕪湖にいたころは、町中の人達から「お姫様」と呼ばれていた人が・・・。
お金よりも何よりも、この話が私にとっては大きな財産です。
同居の伯母夫婦は飲食店の経営で早朝から深夜まで家を空けていたので、祖母はいつも一人でした。
私が8歳で実母に引き取られてから、祖母を一人ぼっちにしたことが、いまだに胸の痛みです。
私が8歳で実母に引き取られてから、祖母を一人ぼっちにしたことが、いまだに胸の痛みです。
娘婿に遠慮してか、「贅沢はもうええの。中国で十分すぎるほどしたから」と言い、
極めて質素で目立たない暮らしをしていました。
極めて質素で目立たない暮らしをしていました。
年に一度だけ「蕪湖会」という同窓会のような集まりで東京に出かけていましたが、
そこへ行くときだけは別人のようなオーラを放っていたことをよく覚えています。
そこへ行くときだけは別人のようなオーラを放っていたことをよく覚えています。
白髪の立派な紳士達が次々と来ては、「おかあさん、その節は大変お世話になりました」と
深々と頭を下げ、祖母の手を握りしめては涙ぐんでいました。
深々と頭を下げ、祖母の手を握りしめては涙ぐんでいました。
幼い私は、「おばあちゃんってそんな偉い人だったんだ!」と驚いたものです。
遊びにきた私を「ポンシャン、ポンシャン」と言いながらお風呂でピカピカに洗ってくれ、
悪いことをしたら「マーラガピー!」ときつく叱った祖母(←相当汚い言葉だそうです^^; )
悪いことをしたら「マーラガピー!」ときつく叱った祖母(←相当汚い言葉だそうです^^; )
いつも自分の身の回りの世話は自分でし、人に面倒をかけるのが大嫌いな人でした。
79歳で体の自由が利かなくなると、翌日には自室で眠るように亡くなりました。
79歳で体の自由が利かなくなると、翌日には自室で眠るように亡くなりました。
あのトランクはどこへ行っちゃったんでしょうか・・・