祖母のトランク(敗戦の日)

私がまだ幼い頃、押入れで遊んでいたとき、天袋にボロボロのトランクを見つけました。

それはごくごく薄い革でできており、とても軽くて驚いたことを覚えています。
祖母が敗戦で日本に渡るとき、飛行機に乗るために特別に作らせたものだそうです。

祖母は中国の蕪湖で生まれ育ち、上海と南京で大きな商売を営んでいました。

戦時中に植民地としての外地へ渡った人々とは違い、先祖代々中国で暮らしていた一家ですが、
日本民族で、日本軍や皇室とも取引があったため、敗戦とともに、中国を追われたのです。

パールハーバーの後、罪も無い日系アメリカ人達が全財産を没収され、
カバンひとつで強制収容所に入れられましたが、
私の一族も、莫大な財産のすべてを放棄させられ、そのトランクひとつで日本へ渡りました。

商売敵だった児○機関は上手く財産を持ち帰ったとの噂、その後のご活躍(?)もよく知られる所ですが、
バカ正直な私の祖母は、言われるままに家も土地も金銀財宝もすべて外地に置いてきたそうです。

それでも幸運だったのは、民間人にも関らず、軍用機で帰国させていただけたことです。
他の入植者達がバタバタと帰国船に乗り込む傍らで、私達の一族は特別扱いで空の旅だったようです。

もちろん、旅客機など無い時代に、です。

「もし船に乗っていたら、私達もどうなっていたかわからないのよ」と、
中国残留孤児のニュースが流れるたび、伯母は気の毒がって涙を流していました。

タバコに巻いて隠し持ってきた僅かな現金(十万ドル、現在の約1200万円)も、日本に着いたとたん、
「両替してきてあげる」と言う京都の親戚に持っていかれてしまいました。

祖母は「日本人は信用できない、支那人は絶対にあんなことはしない」といつも言っていました。
(まあ、どこの国でも、混乱期にはいろんな人がいるものでしょうが・・・)

日本で無一文から立ち上げた製粉工場が人に騙し取られてからは、祖母はすっかり事業意欲をなくし、
次女の伯母が働いて母姉弟妹とその配偶者達まで含めた家族全員を養うことになりました。

伯母は、ハマグリ屋(三重県の桑名から担いで帰って京都で売ったそうです!)を始め、
女給、ダンサー、モデル・・・と「パンパン以外は全部やった」と話していました。

蕪湖にいたころは、町中の人達から「お姫様」と呼ばれていた人が・・・。

書き忘れてはなりませんが、祖母は、中国人の使用人や隣人達を非常に大切にしていました。
だから戦中「大日本帝国」を冠した商売をしていたにも関わらず、彼等から深く信用されていました。

南京大虐殺に怒った中国人がそこかしこの日系人の家に火をつけて歩いたときも、
「この家は良い日本人。この家だけはやっちゃいけない!」と地元の人々が皆で守ってくれたそうです。

お金よりも何よりも、この話が私にとっては大きな財産です。

来日後しばらく貧乏のどん底を歩きましたが、伯母の働きのおかげでなんとか誰一人飢え死にもせず、
昭和30年頃には神奈川県の田舎に流れ着き、やがて2DKの賃貸公団住宅に当選して居を定めました。

同居の伯母夫婦は飲食店の経営で早朝から深夜まで家を空けていたので、祖母はいつも一人でした。
私が8歳で実母に引き取られてから、祖母を一人ぼっちにしたことが、いまだに胸の痛みです。

日本の暮らしにはついに馴染めなかったのか、田舎が退屈だったのか、あまり出歩くこともなく、
部屋で本を読んだりテレビで相撲を見たりして過ごしていました。(大鵬のファンでした)。

娘婿に遠慮してか、「贅沢はもうええの。中国で十分すぎるほどしたから」と言い、
極めて質素で目立たない暮らしをしていました。

年に一度だけ「蕪湖会」という同窓会のような集まりで東京に出かけていましたが、
そこへ行くときだけは別人のようなオーラを放っていたことをよく覚えています。

白髪の立派な紳士達が次々と来ては、「おかあさん、その節は大変お世話になりました」と
深々と頭を下げ、祖母の手を握りしめては涙ぐんでいました。

幼い私は、「おばあちゃんってそんな偉い人だったんだ!」と驚いたものです。

かつては「大日本帝国○○飯店」の女将として皇族がご宿泊の際には自らお毒見をした祖母。
「○○洋行」の社長として日本軍の物資調達に貢献し、東條英機名の感謝状まで受けたことがある祖母。

しかも清王朝の末裔とも幼い頃からの親友で、
地元の中国人達からも「おかあさん」と慕われていた祖母。

賃貸公団住宅の北向き4畳半にひっそりと暮らす無口なオバアチャンがそんな大層な人だったとは、
近所の人達は夢にも思っていないようでした。

遊びにきた私を「ポンシャン、ポンシャン」と言いながらお風呂でピカピカに洗ってくれ、
悪いことをしたら「マーラガピー!」ときつく叱った祖母(←相当汚い言葉だそうです^^; )

いつも自分の身の回りの世話は自分でし、人に面倒をかけるのが大嫌いな人でした。
79歳で体の自由が利かなくなると、翌日には自室で眠るように亡くなりました。

あのトランクはどこへ行っちゃったんでしょうか・・・